ヨハン早稲田キリスト教会(イエス様愛してます)

神様なんか関係ない、世の中で頼れるのは自分だけだ、と言っていた私がクリスチャンになり、
イエス様の素晴らしさをお伝えしたく、このブログを開設致しました。

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私が通っている、東中野にあるヨハン早稲田キリスト教会では、 過日数千人の規模で修養会が行われました。東京近県の自然豊かな場所でキャンプをしながらの4日間の修養会でした。聖会、聖餐式、セミナー、証、森の音楽祭、と盛り沢山の内容でした。今年のテーマは「我々の弱さ、主の力」です。

         

私たちは弱い者です。どんなに立派な人でも権力者であっても、神様の前に立てばただの人です。私たちは謙遜にその事実を認め、主なる神様を信じ依り頼むことによって、主なる神様は私たちを強めてくださるのです。
今回の修養会開催の前日に、恐らく牧師先生以外、誰もが今回の開催は諦めざるを得ないと思うようなアクシデントが起きました。しかし主を信じ、前日の未明、近県から次々と駆けつけた信徒達が総力を上げ働いた結果、見事そのアクシデントを取り除く事ができ、予定通りに修養会を開催をする事ができました。多くの方々は、まるで何も無かったかのように開会礼拝を捧げる事が出来ました。

          

この事から私たちは、人間的に考えて、不可能だと思う事でも、主に依り頼み、決して諦めてはならないと言う事。そしてそれを乗り越える為の知恵と忍耐力、また、一人ひとりは弱くても、信徒が互いに力を合わせ団結すれば強い力となると言う事を悟る恵が有りました。開会前日に主は、アクシデントを通して私たちにタイトル通りの「私たちが弱い時こそ主は強めてくださる」と言う事を体験させてくださった恵み溢れる修養会でした。全ての栄光を主に帰します。アーメン!
修養会 | 12:15 | author racer-n-tone | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

今週は私が毎週通っている、東中野にあるヨハン早稲田キリスト教会の、第一男子宣教会の兄弟の誕生日会を大久保駅近くの中華料理店で行いました。

        

        

交わりの合間合間に、店の中国人のスタッフと片言の中国語を楽しみながらの食事でした。誕生日を迎えた兄弟も少し中国語が出来るので、喜んで下さいました。 
私は昔(教会に導かれる前)聖書は仏教で言うお経のようなものが書かれているのだと思い込み、敬遠していました。ところが、社員教育の材料を探していた事がきっかけで教会に導かれ、聖書を初めて読んで私はカルチャーショックを受けました。なんとその中身はお経でも、倫理書でも、物語でもなく、主なる神様の、私たちに送られたラブレター、御言葉だったのです。

             

外国語も少しだけでも分かると楽しくて覚えた単語を使いたくなります。そしてその単語が通じれば更に嬉しくて、もっと覚えたくなります。聖書も、最初読んで理解できないような事が書かれていても、聖霊様の助けによって理解できるようになれば楽しくて、更にその御言葉を日常の中で実践し、結果が出た時は嬉しくて、もっともっと読みたくなります。

          

木曜日に、怪我をして寝込んでいる兄弟を励ますため、訪問し、聖書の御言葉を分かち合いました。4回目の怪我により、落ち込んでいたこの兄弟は、御言葉の分かち合いによって勇気付けられ、元気が出、感謝でした。矢張り人を変え、勇気付け、正しい方向に導くのは御言葉しかないと言う確信を得る恵が有りました。
これからも、主なる神様からのラブレターである御言葉を、宣べ伝えて行く働きに用いられたいと言う決心が与えられた一週間でした。アーメン!
訪問 | 13:32 | author racer-n-tone | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

私が毎週主日(日曜日)に通っている東中野のヨハン早稲田キリスト教会で、いま旧約聖書のヨブ記を学んでいます。
東の国一番の資産家ヨブについての事実が記録されています。敬虔で神を畏れ、信仰心の篤いヨブが、全財産と、12人の最愛の子供達を一瞬にしてなくしたにも拘らずヨブは、神を呪うどころか次のように言ったのです。
[わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
このような状況の中で主を褒め称えられるヨブの信仰の基本は、全ての主権者は父なる神様であられるという事に他なりません。

          

しかし災いの大波は、まだまだヨブに押し寄せます。
ヨブは重い皮膚病(らい病)にかかり、一番身近にいる良き理解者である筈の妻からも、「神様を呪って死ね」とまで言われます。それでもヨブは「わたし達は神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言い、その信仰は揺れません。

       

さらに3人の友人がヨブを励ますために見舞いに来たのですが、ヨブの有様を見て、ヨブが罪を犯したから神様に裁かれたに他ならないと、世の原理原則である因果の法則を持ってヨブを裁き攻め立てるのです。
しかしヨブは「私は知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」と言うのです。

         王冠

わたし達はこのような状況に陥ったら、「こんなに信じてるのに。どうしてこんな目に遭わなければならないのか!」と神を呪い信仰が揺れるのではないでしょうか?それは主権者が神様ではなく、まだ自分にあるからではないでしょうか。
「こんなに信じてるのにではなく、信じてあげてるのに」の信仰ではないでしょうか?「恵によって信じる事が出来ている」と考えるのは、主権が神様であり、「信じているのに」と考えるんのは主権が自分なのです。

          

神様の試練に耐え忍んだヨブは、神様から、全ての資産、子供が以前に比べ倍になるという祝福を頂きました。ヨブ記を通して、世の全ての主権者は父なる神様ただお1人であるという信仰が、試練や災いを乗り越え、神様に祝福される秘訣で有るという事を悟る恵が有りました。アーメン!
ヨブ記 | 15:05 | author racer-n-tone | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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